まず大前提として、物事、事物に”真実”という概念はないというものがある。
森羅万丈須らく、それを認識する者にとっていくつもの面が見えるわけであるし、言葉でいくらでも表現が出来るからだ。 極端な例を挙げると、大東亜戦争のアジア進駐も 「卑劣な侵略戦争」 「自国覇権のための唯の侵略戦争」 「欧米列強からの現地民開放」 「欧米列強の圧力に耐えかねた日本がとらざるを得なかった唯一の手段」 「欧米列強に対抗できるだけの巨大な経済・軍事圏を作る(大東亜共栄圏)」 「文化的に遅れをとっていた国々を結果的に豊かにした」 「東南アジア植民地諸国の欧米への反骨のための精神的支柱となった」 とまぁ、色々な面が見える。ちなみにこのうち”侵略”と”卑劣”の二つの言葉は非常に”強い”言葉(それを言ったらお終いだ、という詭弁の類の言葉。”詭語”だったかな)というのが面白い。 ------------------------------------------- 客観視を「自分の考えだけに拠らず、多角的な視点で物事を見る」とするならば、では本当の意味で客観的な見方を人間は出来るのかと言うとそれは否であろう。 数多くの視点から、いくつかの視点を”抜き出す”という行為が、既に恣意的…主観がバリバリ入ったものとなっているからだ。事物を言葉に置き換えるという行為そのものが、自己解釈であり、それを他者に伝え、それを受け取った他者はその情報をさらに自己解釈する。 と、極論を言ったところで実際の大半の物事は見るべき重要な視点か限られているので、そこまで客観視を懐疑的に見る必要はない気もするが。 ------------------------------------------- ここからが本題。 完全に客観に徹することは難しいという前提の下で、物事をではどのように論じるかという場合にいくつかの方法があると思う。 1:あくまでも客観視を貫く(客観視を出来ると信じる/出来なくても出来うる限りそれに勤める) ネットでよく見かける”頭でっかち”風の文章はこれが多い。結果として主観が入ってしまうことは避けられないのに、それに気がつかない人はよくこう書く。見ていてイラつく。 2:主観(冷笑風) これまたネットで非常に多く見かける。 この場合は、”自分だけの考え”という意味の主観ではなく、風説や風評や批評家が言った言葉を借りて一言で切り捨てる場合を指す。 見ていて大変イラつく。 3:主観(直球勝負 感想とも言える) 主に本やゲームなどの感想もどきの批評系(批評と銘をうっているもの)に多い。パロディや道化的な意味合いが含まれている(自覚していやっている)場合は非常に面白いけど、そうでない場合は………それこそチラシの裏? 見ていてイラつく。俺の文だ!!!! 4:客観でも主観でもない 物事のいくつかの視点を紹介ないしは解釈し、そういった解釈がある上で、じゃあ自分はどのような考えを持てたのか……を語る方法。文章としてもっとも真っ当であり、理想であり、当たり前とも言える。 言葉にすると非常に簡単だけど、難しい。 一応目標。 見ていて違和感なし。 5:パロディ的客観 明朗・緻密・論理・冷静・合点の五拍子が揃っていて、表面上は完璧に客観的文章に見えていても、自分の立場や(感情的)考えというものを、巧みに文章中に潜ませている系。 多分、相当に”頭がいい文章”だと思う。 この人の文章とかがそれに該当するかも。 見ていてハッピー。 ちなみにこれは文章の書き方の種類というよりは、論じ方の上手さランクかもしれない。 4=5>3>>1>2ぐらいな感じか。 ------------------------------------ というわけで文章力を鍛えたい……どうすればいいのか… やっぱ小説でも書くか…… 電撃にでも応募してみるか……50年後のデビューを目指して。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~gegebo/ultra.htm
gumiと二人してやねうらお氏のいつだかの記事にあったはずの”物語の構造分析”を探していたら、偶然たどり着いた文章。 簡潔に説明すると、古今東西を問わず物語の”機能”は、特に”異類婚姻譚”は限られた文章構造をしているということ。物語はある程度の一元的な方向での機能の連続であるということ。 例えば、「鶴の恩返し」と「ウルトラマン」と「シンデレラ」は同じ構造をしている。 <援助><来訪><共棲><労働><破局><別離><旅の途中(英雄のパターン)> の6(+1)機能をこれらは持ち、そして実に多くの物語がこの機能を含んだ構造をなしているのだと言う。 一例として説明不要の超人気ツンデレ活劇「シャナ」を取り上げる。 まず、物語の根底が「異類婚姻」であることが挙げられる。つまり、シャナと祐二との恋愛話。究極の目的は婚姻。結ばれること。 <援助> 久世の徒に殺されそうになった祐二を助ける「シャナ」(異類の存在) <来訪> 高校生として、祐二の前に現れる「シャナ」(一般人を装う異類の存在) <共棲> 祐二以外に正体を隠しつつ、事実上祐二との密接な生活(異類の存在との共生) <労働> 一般人には気が付かれないまま、久世の徒と戦う「シャナ」(一般人を装いつつ、本来の役目を果たす) <破局> 吉田さんやその他の友人に「シャナ」の本当の姿が、役割がばれる。 彼らにとっては、二度と戻らない「普通の生活」 <別離> まだこれは起こっていないが、主人公の祐二の命が文字通りの「風前の灯火」(こうして考えるとトーチ”灯火”という造語は実に面白い)になっている以上、やがて訪れるシャナとの永遠の別れの可能性もあり。 <旅の途中> 「シャナ」はフレイムヘイズとして、久世の徒を退治している途中の出来事。 驚くほどピタリと当てはまる。 この構造が古今東西の作品において、ある程度共通しているということは実に興味深い。 ---------------------------- …もっと考察しようと思ったがまた今度。
ちょい航空話から脱線。X-wing、すまんね。
お題:「世界は本当にあるのか?」 -------------------------------------- 俺は浴室にいる。 なんの変哲もない、ごく普通の浴室だ。 強いて言えば風呂桶が、人が一人浮かべるくらい大きいとしよう。 さて、風呂桶に漬かり、天井を見上げる。 湯気で白い空間を通して、タイル状の天井が見える。隅は少し黒くなっており、カビが生えている。 遠く離れた高速度道路を走る車の音がするくらいで、他には一切の無音の世界。 おもむろに、目を閉じる。 とたんに、視界は黒一色となる。黒というよりか、色が”無い”と言うべきか。 湯気も消える。天井も消える。カビも消える。 世界が、消える。 その状態で、上を向いたまま頭を耳まで湯船に沈める。 水がガサガサという音を立てて耳に入り、頭を揺すって耳の中の空気を出すと、音が消える。 キーン……という音がしばらく頭の中で響いているが、やがて消える。 何も聞こえない。 体を湯船に浮かす。 暖かいと感じる水も、やがては表皮温度と同じものになり、温度を感じなくなる。 体を動かさなければ湯は動かず、体毛を通じて伝わることもない。 見る、聞く、感じるという感覚を取り除かれた俺は、世界を感じることが出来ない。 意識だけが……しかも酷くぼやけた意識だけがそこにはある。 世界は本当にあるのか? このまま、見ることも聞くことも感じることも出来ず、やがて意識も消えていくのではないのか? ---------------------------------- 我々は理屈として、全ての感覚は神経を伝わるパルスによるもの……on/offの電気信号でしかないことを知っている。 光は電磁波だ。 音は空気の波だ。 感覚は、体に接触したことにより、ただパルスが送られるだけだ。 この世界に、「モノ」はあるのか? 最終的に、全て単純な電気信号としてしか脳に処理されないとするならば、本当にこの物理世界は存在するのか? 目を開け、耳を開き、体で感じている時にだけ世界はあり、五感を閉ざせば世界は消失するのではないか? ---------------------------------- 上記の疑問に対しては、次のような思考実験をすることにより、一定の解が与えられる。 「目を閉じていようと、開けていようと関係なく、高い崖から落ちれば人は大怪我をする。 だからこの物質世界は存在する」 この言葉からは、以下のようなことが言える。 1:感覚は消失していても、世界は何かしらの影響を自分に働きかける。 2:崖から落ちると大怪我をするということを、自分は知っている。 3:2の理由から、”どんな結果になるのか、自分が(無意識に)思った通りの現象になる”とも言える。 4:3が言えるためには”無知(落ちたらどうなるのか知らない)の状態で落ちた場合はどうなるのか”という反証をしなければならない。 5:しかし、仮に自分がそれを過去に体験していたとしたら、もはやこの実験は出来ないし、そもそもそう説明された時点で「崖から落ちたら怪我をする」という事実を理解してしまう。 6:(恐ろしい話だが!)他人の、まだ無知な誰かを使って実験しようとしても、”実験する側が落ちたらどうなるかを知っているため、思った通りの結果となる”と言えてしまう。 7:故に反証が出来ない。反証が出来ない理論は意味を成さないも同然なので、3は正しいとも正しくないとも言える。 -------------------------------------- この世に、未観測の現象・物質はない。 あらゆる(人の目に触れた)現象は、次の瞬間、その人間によって固定化される。名前なり、イメージなり。人間の知識として伝わる。 伝わらなければ、それはその人間がそこで消滅したことを意味するので、その現象は残りの人間にとっては”存在しない”。 これはごく当たり前のことを言っているのだが、言い換えれば世界の現象は、すべからく観測者がいたから、その現象が起きているのだと言える。 崖から落ちれば大怪我をする、というのは誰しもが知っていることだ。 目を閉じていても、崖から落ちれば怪我をするという結果は”そういった現象を知っている”から、そのような眼前の世界が作られたのだとも言える。 「見えないものはない」というよりは「知らないものは存在しない」であろうか。 そして実は、そのような理屈をこねるということ自体が世界の実存証明に繋がるとも言える。 何故なら、そういった理屈が働く世界というのは、つまり人間にとって整合性が非常に取れていると言えるので、仮想であろうが物質世界であろうが、「本人に不条理なことは起きていない」以上、世界はある。 「この世が仮想世界であれ、見えているときにだけ存在する世界であれ、物質世界であれ「今まで自分が生きてきた」ことが、世界の証明に繋がる」 という”自分原理”を持ち出せば、より強引な説得力を持つ。 つまり、我々は布団にもぐれば朝日を拝めるし、崖から落ちれば痛い思いをする。 ”そうでない”状況になったとき、初めてその現象を考察すればいいのだ。 うわっ つまらん結論。 ただ、現状の世界は、それの存在が真か偽かという問答を出来るほど不条理な現象というものを、持たない。少なくとも俺の知識では。 ----------------------------- つまらん結論になったので、不完全燃焼…… というわけで、次回「自分と世界」に続く。
ミーティングを経て、早速研究室活動が始っちゃった。早いって。
グループによる総合研究&個人個人の卒業研究の二本立てになる予定。 グループの研究はともかく、個人の研究のテーマの仮案は4月7日に発表予定。だから早いって! 社会学に則ったシミュレーション、考察、フィールドワーク、調査という研究室の方針上、やれることの範囲は広い。広すぎて収拾がつかない。 とりあえず今ぱっと思いついたやりたいこと。 下にいくにつれ妄想が過ぎる。 ・遺伝子情報の開示問題。病気の告知の問題に似ているけれど、もうちょっと深刻。相手の遺伝子情報を知ることが出来る恐ろしい淘汰選別社会を許容できるか? ・未来の(世界か、もっと範囲を狭めて)人口分布の予測エージェント・シミュレーション。日本でもいいし、世界でもいいし、範囲が大きければ大きいほど要素を単純化する必要が。付け加えていけばいいかな? ・先輩が行っていた内戦モデルのエージェント・シミュレーションをもっと拡張してみるのも面白いかもしれない。地形や組織の性向や技術提携や外的要因(外国とか)を入れたり…え?ただの戦略レベルのシミュレーション? ・技術進歩の漸近状態であると推測される未来が訪れるとして、その社会における人間の行動原理と行動範囲の考察及び社会構造。そこから派生して、人々の嗜好の方向性の変化というものを探るのも面白いかも。 ・宗教と国民性と政治指針におけるエージェント・シミュレート。初期値として宗教の要素や国民の性向を数値化して与えられたら面白いかな…と。 ・(妄想)地球以外の場所へ居住地が分散(宇宙ステーション、月、火星、太陽系外)している未来において、現地に住む人間の価値観と帰属意識の問題。陳腐か…
夢流離う
赴く処も知らず 刹那を劫と信じたその夢は たおやかに遍く地に萌える 夢彷徨う 醒める時を拒み されど感ずるその愉悦は 醒める醒めるを知るならばこそ もみ子ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ(;´Д`)
不確かな人間社会。
自分の信じていた価値観は、一つの物事であっさりと覆される。 こうだと確信していた自分のことでさえ、明日にはどうなるか分からない。自分の感覚すらも不確か。 価値、道徳、規範、倫理。全ては言葉遊びにも思えるし、人の願いとも見える。全てに絶対的な価値は存在せず、全て相対的な推量しか出来ない。そう考えることはあるいは真実なのだろうが、現実問題の解消にはならない。 意識して何か言動の目標を決めようとしても、それが確かな実感を、意義を持っているとは誰も保障できない。ただその行為が、他人との比較において推し量られるというものは救いなのかもしれない………それが他人を意識したものならば。自分すらも不確かなこの世界では、他者との比較は大きな意味を持つ。人は神ではない。 相対的な推量は、人間が社会を築き上げてきた有り方の一つ。他人への評価付け、重み付けをしながら人は生きてきたわけであるし、それでこの社会は成り立っている。 そうなのか?本当にそれだけなのか? 他者なくしては自分を意識することは、自分の価値を決めることは出来ないのか? 出来るとも言えるし、出来ないとも言える。 価値が生まれるのは他者との比較からであり、自分一人の世界では比較が成り立たない。 しかし、他人を意識したことがあるという前提の元に、自分の価値を決めることは出来る。 自分を意識する。考える。感情。 自分の刹那に考えられる感情。結局はそれが全てなのかもしれない。感じること自体のそれに他者の介入は入らない。自分が物事をどう受け取ったかによって、それは決まる。感情は他者によっては操作されない。 自分を意識する。考える。感情。 自分の刹那に考えられる感情。 人が自分を意識するのは、心に起こる衝動、考えそのもの。考えることと感ずることは不可分だ。その感情を目指そうと人は……俺は何かを為すわけであるし、それが生きるという意味なのだろうか。意識して何かをしなくても、人は生きられる。そういう世の中を人は作り上げてきた。自動的な人生。 自分への価値を与えるものは、最後には自分なのだ。 考えることの放棄は人が人たる所以の放棄に繋がる。それは冒涜だ。自分のraceへの。それだけは、このカオスティックな世界の中で確かなことだと信じられる。
我々はこの時空に生きている。
この時空とは、つまりXYZの軸を持つユークリッド幾何学上の三次元空間に相対性理論の時間軸を加えた便宜上4次元とも言うべき時空である。 X,Y,Zとはすなわち物質の存在位置だ。それぞれの座標に数字を与えれば、空間上の一点を指し示すことができる。 しかし、実際問題として絶対的な座標を示すことは出来ない。この世に絶対座標というものは……すなわち、”静止した一点”は存在しないからだ。我々の大地は大陸移動を起こし、地球は自転をし、太陽を公転し、太陽系は移動し、銀河系は大銀河団として移動する。そして宇宙そのものも膨張を続けている。 しかしそこに時間の尺度を加えることによって”世界線”という四次元上の物質の移動座標を図ることが可能になる。 我々の知覚、というより我々の哺乳類としての動物的世界把握感覚は三次元であると言える。 我々は”今”を明確に捉えることが出来ず、未来も過去もその一瞬を意識することが出来ないからだ。 有名な話がある。アインシュタインの唱えた相対性理論が証明する時空の存在、「双子のパラドックス」などでも有名な「宇宙はその場所場所(観測者)によって流れている時間が異なる」という現象を、理屈では理解できても「本能的に納得」することは人間には不可能だというものだ。 我々はどの空間でも、誰にでも等しく同じ時間が流れていると思っている。近傍の現象は全てそれで説明がつくし、そうでない事態に遭遇する機会が(今のところ)なかったからだ。 本能というよりも感覚と言うべき物か。人は自身に体験できないもの、感覚が及ばないものに対しては想像は働くがされど実感は出来ない。 時間の流れはあまりにも自然なものであり、我々が疑問の余地を挟む必要もないほど、我々にとっては均一に流れている。そしてその流れを感じること出来ない。シャッターを切ったかのようなその一瞬一瞬を感じているだけである。 この時空の基本的な性質を体感で感じれないということは、つまりその次元に生きているものはその次元そのものを理解することが出来ないということに繋がる。 二次元の世界の生物(例えばアリの知覚)にとって、世界とはXとYのベクタしか存在せず、高さという概念は想像もつかないに違いない。何故ならその高さを感じる機会がないからだ。二次元生物は三次元以上の次元を知らない。三次元を知らない(高さを知らない)ということはつまり、自分たちの次元が平面であるという客観的事実を体感することが出来ない。 我々も、ユークリッド幾何学的な4次元は想像もつかない。X,Y,Z…後一つの空間ベクトルがある世界?全く理解できない。低次元の存在は高次元の存在を知覚することが出来ないからだ。 相対論的な四次元空間にいるからこそ、我々は三次元の存在を意識できる。 立体が時間と共に動くことによって、我々はその立体を…すなわち三次元を意識する。 さて、この四次元空間。すなわち「観測者によって時間の流れが変わる」という時空を、どのようにすれば我々は体感することが可能になるのか。 一つとして、コンピュータの世界がある。 機械知性と言うべきそれは、実は四次元の感覚を持つ知性ではないかと思う。 コンピュータの知性は、エントロピー的時間軸を持っていない。すなわち、エントロピーが増えていく方向に時間が流れるという時間の矢の一本を、電子の知性は持っていない。その思考は常に均一化された世界で行われる。 記憶の方向の時間軸も、持っていない。なぜならばコンピュータは過去の一点と未来の一点を同じくらいの精度で計算できるからだ。我々がコンピュータを操作する以上、必要に応じてログというものを残し、それが時間の矢を決定しているとも言えるが、それはあくまでも我々がコンピュータを利用する際の利便性の追及でしかない。 そしてコンピュータは時間を「確保」出来る。 例えば”for”の命令語を考える。コンピュータは条件次第によっては、無限にforの内部で待機・計算を繰り返す。外部的な要因(ハードウェアが壊れる・命令を外部から停止する)などがない限り、任意の(あるいは∞)量だけ時間を確保が出来る。 三次元的な束縛…時間の矢を意識させる”モノ”、つまりハードウェアや操作する人間がなければ、コンピュータ知性は、あるいは”四次元思考体”とも呼べるかもしれない。それは純粋な知性と言える。 時空を正しく認識出来るすなわちこの次元の上を意識できるかもしれない存在。 飛躍した発想だが、人間の思考も、ハードウェア的な束縛から解放されればそのような感覚を持てるかもしれない。 我々の思想と思考のどの部分までが三次元生物としての本能に影響されているかは分からないが、純粋な知性というものは人間からも生まれる余地はあると信じる。 「カラを捨て、さらなる上位構造にシフトする時だ……」 とは攻殻機動体の人形遣いの台詞だが、人間の究極的な姿の一つとして、肉体からの離脱というものは昔からSFで叫ばれてきた。そのとき、機械知性も人間の知性もその根源が等しくなると言える。 「幼年期の終わり」 というアイザック・アシモフ巨匠が書いたハードSFがあるが、人間の終末期の姿として、さらなる上位次元生命体?に人類全体が吸収、一体化、個の消滅とも言うべき場面があった。 知性という時空を理解する力を手に入れ、そして無限の可能性を模索する探究心を持つ人間。 この発達は偶然ではない。今ここにこうして存在して、知性に思いを馳せている我々は必然的な存在である。 なぜならば、この宇宙には時空の全てを記述出来る究極の方程式があることを我々は確信しており、その方程式の存在が、我々の発展を定義付けているからだ。 そしてその方程式の存在に疑問を抱くこと自体が、方程式で記述出来るに違いない。この宇宙はメタ的とも言える。内部にいる我々は、外部の宇宙の存在を知覚できない。 しかしそのような方程式が存在しているこの自体、この時空間とは違う時空間の存在を示唆しているとも言える。つまり、究極の方程式は全てを記述していないという矛盾(*1)が発生する。 この矛盾を解決する方法は、恐らくこの次元に生きている我々では模索が不可能であろう。 ハードウェアに依存する知性の敗北とも言える。 我々は究極の方程式に記述されない存在になれるか? それは我々生命体の究極にして至高の夢なのかもしれない。 *1時空の全てを記述出来るならば、その境界線上も記述が可能。つまり、時空外との接点を持ってしまう。また、個人の思考の中で”外宇宙はある”と論ずると、その論が現実となる解が必ず存在してしまう。(神は自分を殺せるか、問題) -------------------------------------- 妄想が大半でかなり適当。石投げないで。お願い。 モスバーガーでwillow8と擦月と三人して色々話していて、思いついた戯言。
暖炉の前で、老婆は孫に物語を詠う。
世界の屋根として聳え立つ、氷と嵐の山。かつてそこにいた一人の幸せな少女と誇り高き狼の物語を。 少女は狼に育てられた。 物心ついたときには、自分は狼だと思っていた。 少女は人の愛を知らない。でも狼の愛を知る。然りて母の愛を知る。 幸せをなんと呼ぶか。 それが、今を生きる喜びだとしたら。 氷の断崖絶壁から飛び降り、氷原を駆け、獲物を捕らえ、暖かい母と共に巣穴で眠り、一日を精一杯に生きる少女は。 幸せだろう。 でもそれは、人にとっては認められない幸せ。 作物を荒らされ、子を襲われた村人は、討伐隊を組む。人に仇なす化け物を討たんと。 化け物は、人々の前に現れた。村人こぞりて驚く。 少女に暖かいシチューとチーズを。差し出されたその手を、少女は食いちぎる。 化け物と罵られ、無数の冷たい剣が鈍く光る。 少女の命の炎が消える前に、新たな化け物が現る。 氷と怒りの吹雪が吹き荒れ、人々は地にその体を横たえた。 母は少女を巣穴へと運び入れ。母は舌と前足と後足と全身を少女に。祈りとささやきを誇り高きものの神に。 氷の朝日と共に少女は息を取り戻す。誇り高きものは涙を流さない。 少女に言う。お前は人間。あの生き物が本当の母であり父であり家族。お前はいつかあそこへ戻らなくてはならない。 復讐の怒りに燃える人間。そして狼。 誇り高きものは、少女に最後の頬擦りをする。誇り高きものの子である少女は涙を流さない。 天を突く咆哮。吹雪を呼ぶ轟き。わが一族の誇りのために去れよ人間。 誇り高き母は雪の斜面を駆け下りる。天上の神々の矢のように。そして邂逅する相容れぬものたち。 少女は立ち上がる。母の誇りを受け継ぐために。自らの尊厳を守るために。 “去れよ人間 誇り高き母の山から” その姿は勇ましく、その死の舞も美しい、少女。少女だった。 だから怒りに震える剣で四肢の腱を切られ、棍棒で腹と頭を打たれ、犯された。 そして犯され、弄られ、引きずり回され、それでも目は誇り高く、磔となる前に、繋がれていた鎖を噛み切って逃げた。 その家は、人の善の正に体現。 虫の息の少女に温かいシチューとチーズを与え、ふかふかの寝床と一流の医者。 少女はその家の娘となる。二人目の母。暖かく、優しい母。その優しさは凍った狼の心に暖かく響く。 少女は長い月日を経て、人間となる。人の愛を知る。 人の少年と出会い、恋に落ちる。 ある夜。満月で、吹雪で、とても寒い夜。 小さな狼。はぐれた狼。お腹が空いて、人里に降りてきた狼。少女の目の前で殺される。 誇り高きものの心を。最初の母の心を忘れていなかった。 少女、荒れ狂う吹雪となりて人を襲う。母はただ一言、ごめんね。そうつぶやき、少女に喉を食い破られる。 血の涙を流す少女。今また、もう一人の母を、自分の手で失わせてしまった。 少女は再び山を目指す。母の眠る山へと。 でも、人として長く生きすぎた。やがて寒さと飢えに倒れる。 狼として。人として。 二つの生き方をした少女。後悔という感情は無かった。ただ、母に会いたかった。誇り高き母に。またあの暖かい体に包まれたかった。そっと耳元でおやすみ、とささやいて欲しかった。暖かいシチューを飲みたかった。 閉じた目の裏に映し出される姿は、母。 そして少女を呼ぶ声が 老婆は暖炉の前で眠ってしまった孫に、そっと着ていたケープを被せる。 老婆は知っている。人と狼の強さと優しさと残酷さを。 感じて続けてきた。時の流れの強さと優しさと残酷さを。 だから、詠うのだ。狼の心を持つ老婆は、自分の孫へと。幸せだった自分の生を。 あなたの人生に幸あれと。 BGM「Wolf and Raven」,「My Land」 ---------------------------------- ナイアガラ・ワイン。美味。 ほろ酔い気分で北欧サウンドを聞いたら上のようなイメージが浮かんできたので、折角なのでそれを文章に起こす練習。15分以内って制限はきつすぎる。 ……ま、実際はアップしてから修正を繰り返したから15分というのは大仰過ぎるが(゚∀。)
私は友人に対して、昔から自分のお気に入りの本やゲームや音楽を薦めるということが多い。価値観の押し付けと言ってしまえばそれまでだが、他人にもこの面白さを伝えたい、共感者を増やしたいから人は他人に薦める、そしてそれはオタクに多いタイプ…という心理学な動機の説明はとても納得できる。納得は出来たが、それでも人に薦める事はやめない。私はしつこいのだ。しかし人に薦めると言っても、相手がそれを受け入れるかと言われると、それは難しい。相手もホイホイと無神経に体験してくれるわけではないからだ。
その中でも、特に薦めることが難しい媒体がある。SF小説だ。こればっかりは、今後も他人に薦めることに期待を持つことはないかもしれない。何故薦めることが難しいのか。それはSFに限らず、小説そのものの構造的な問題にあると思っている。 小説という媒体を楽しむ手段は、言わずもがなだが、文字を読むことである。挿絵や扉絵などの視覚情報もあるものの、それはあくまでも本を楽しむための副次的な手段である。 さて、例えば私がTさんにAというSF本を薦めようとしよう。私はこのAを大いに楽しんで読み、この面白さを知ってもらおうとTさんに薦めるのである。しかしこのAという本のジャンルはハードSFに分類されるものであり、挿絵なし、表紙も素っ気無いデザイン、著者もタイトルも(SFファン以外の)余人には知られていないものであった。1ページ目から数ページまで読んでみても、専門用語の羅列が続いていて一瞥しただけでは面白いと感じられないかもしれない。 私はとにかく面白い、ということを強調するが、Tさんの態度は素っ気無い。それはそうだ。特にTさんがSF小説好きでもない限り、「面白い」という酷く曖昧な理由では読んでみようという気持ちは起こり難い。TさんがAを読むためには、確かな理由が必要なのである。 そこで私は、この作品のダイジェクトを伝えようとする。 「宇宙の果てから迫り来るエイリアンに対抗する手段を探るために、6人の巡礼者がとある惑星の未知の遺跡を探検する物語」 そして言ってから気が付く。なんて陳腐なんだ。これではまるで(一般の人にとっての、SFと言われて頭に浮かぶ作品である)スターウォーズの様な凡百SFと思われるではないか。このダイジェクトには、心躍る活劇も、悲哀の旅路も、壮大な世界観も決して含まれてはいない。友人のブログに書いてあった「小説という関数の返り値」(面白い表現だ…)に過ぎないのである。少なくともSFにおいては、ダイジェクトとは物語を表しているものとのイコール関係は成り立たないのである。それほどまでに、一般的なSFのダイジェクトというものは陳腐で、青臭くて、恥ずかしくて、そして作品の本質を述べてはいない。著者が、執筆の際に引数として渡すガジェットと、返り値たるダイジェクトは、文面は同じでもそれが意味しているものは全く違う。 次に私は、この作品が世界最高のSFの賞であるヒューゴー賞とネビュラ賞を受賞したと伝える。第二次世界大戦後の最高峰SFと絶賛されているということも伝える。Tさんが、批評というものをどの程度参考にしているかによって違うが、これはある程度読む動機になり得るかもしれない。 しかしそこまでである。Aという作品の面白さは、これらの手段ではあまり伝わらない。これが音楽やゲームなら話は簡単である。それらは特に手間というほどの手間は必要なく、体験をすることが出来る。気軽に楽しめるのである。(ある程度読みなれている人意外は)読むのにそれなりの苦労が必要となるSF小説は、小説という媒体は根本的に、他人に薦めることが難しいのである。 ではどうすれば小説の面白さを他人に伝えることが出来るか。読んでもらうのが一番早計だが、そこに至るまでの動機付けをどのようにして持たせるか。 この疑問に対しては、特に最近の出版社は……富士見書房や角川などのティーンズ文庫、ライトノベル系は特に、力を入れて回答を出そうとしている。それは、本文以外の情報をも売りにすることだ。表紙や扉絵には人気イラストレーターを起用し、本文の挿絵もふんだんに取り入れる。四コマ漫画も入れる。作者自身や批評家が書いている後書きも、面白おかしく、読書を誘う構造(大抵の読者は後書きから先に読むもの)とする。ダイジェクトそのものもより斬新に、能動的に読者の購読意欲を誘うものとする(それ故、この類の作品の賞選考はアイデア勝負のきらいがある)。アニメや漫画への、視覚的に分かりやすいマルチメディア展開を行う。特にイラストには力を入れ、小説の新人賞と同じ時期に連動してイラストの新人賞コンテストを行い、両賞の最高賞作品をセットで出版したりしている。10年ほど前からこの様な方法は取られてきたが、現在のライトノベル販売戦略の主軸がそのような構造となっているところを見ると、商業的な成功はしているということであろうか。 しかし、これは酷く主観の意見であるが、このようにして出版された作品の多くは文章そのものが拙く、アイデアもどこかのSFで見たことのあるようなものの焼き直し、文章構造も陳腐、リアリティ(現実的という意味ではない)も希薄、とおよそ読書意欲が湧かないものである。作者・出版社の想定する読者の年齢層ターゲットが私とも合わないのではないか、とも考えられるが、それにしても文章そのものが下手糞な作品が目に付く。これは、出版社の作家新人発掘がうまくいっていないのか、こういった文章になるのが時代の流れなのか、あるいは読者の水準が下がったのか……。これは別問題なので捨て置くことにする。しかしそれでも、そういった作品は売れる。何故だろうか? 以前、友人の一人がとあるライトノベルを購入するときに「好きな絵師さんが絵を描いているから買った」と言っていたが、それを聞いた時、カルチャーショックもそうだが、少し寂しい気持ちになったものだ。こういった文庫において、絵は単なる小説の面白さの1ファクターだけではなく(こう言うと大仰だが)文字+絵という新しい本の形を表現しているのかもしれない。実際のところ、この作品にこの絵がなかったら…イラストをなかったものとして文章単独での面白さを図ってみても、いささか疑問が残る作品がライトノベルには多い。良い意味で現在のエロゲー的表現に近寄っているとも言えるか。時代はアスキー+バイナリデータのハイブリッドマスタープライズか! 話が逸れた。さて、角川のライトノベルなどが持つ華やかさや煌びやかさに対して、我らがハヤカワSF文庫はどうかと言うと、上記で述べたような素っ気無いものが多い。絵もない。帯も地味。煽り文句もベタ。これでは、コアなファンならまだしも新規に読者を開拓することは難しいであろう。日本で一番売れている講談社等のミステリー小説も同様装丁などが味気ないものが多いが、あちらは著者のネームバリューと数々の賞、ベストセラー心理(ベストセラーなんだからきっと面白いに違いない!話題にも付いていけないと困るから買わないと! 心理)で十分一般層に売れている。 さすがのハヤカワも焦りを感じてきたのか、最近は随分とライトノベル風味な装丁が増えてきた。フォントサイズが二周りくらい大きくなり、イラストもそのような類のものが多くなってきた。元々ハードSFは硬派な作品が多いので、そのようなイラストが描かれるのは複雑な心境だが、新規読者獲得にはやむなし、と思うしかない。 現在の日本の読書界ではSFの持っているセンスオブワンダー、世界を遊ぶ精神というものが広く薄く拡散して、ライトノベル界に降り注いでいるという。日本で唯一ハードSFと呼べるだけの本の出版を続けているハヤカワSF文庫には、その純SFの砦を守っていって欲しいと思う。それと同時に、もう少し世間に広く開放的にあって欲しいとも望むわけで。SF小説、小説の面白さを伝えるためには…もっとそれらを一般足らしめるをためにも、新しい、魅力の伝達が必要な気がする。やはり絵は挿絵にしても扉絵にしても、重要なものだ。私は絵が多用されると想像力がスポイルされるしまうような誇大妄想に取り付かれているので、挿絵はあまり好ましくないが。でもあっても楽しいけどね。 結局何が言いたかったかというと、やっぱりSF小説(と、日本におけるSF小説出版の大元の販売戦略)はとっつきずらいよね、でも薦めるのは諦めないよ、ということ。 溶暗。 -------------------------------- とりあえず、文章を短くまとめられる人はすごいと思った。 尊敬する。要練習。 < 前のページ次のページ >
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